2016年10月30日

尾山台は北口へ

床屋さんて歯医者と同じでなかなか変えるのに勇気がいります。引っ越してもそう。髪の毛が少なくなってくると、なおさらです。たった1人の理解者くらいの感じ。それでってわけじゃないんですが、床屋さんは昔住んでいた尾山台に行っています。尾山台は事務所のある九品仏の隣駅。
もう1年半くらい前になりますが、いつものように少ない髪の毛をなるべくボリューム出るようにお願いします と無理を承知で頼んでやってもらってたら、肩越しに「ホームページなんかも…やりますか?」と商店街のホームページのことを相談されました。いつも仕事のこととか話しているのでグラフィックデザイナーってことはご存知。聞けば現行のホームページはすごく前に作ったもので使いづらく変えたいという意見があってってことでした。尾山台の商店街というと南口の『ハッピーロード』が有名ですが、北口にも等々力通り周辺に80店もの商店街がありまして、そっちは『ふぉ〜ゆ〜尾山台』といいます。そっちです。最初ふぉ〜ゆ〜ってどうなの〜って思いましたがジャニーズのグループにあるんですって。四人組で名前に全員ゆうの字が入ってる。で『ふぉ〜ゆ〜』…四人のゆうちゃんでふぉ〜ゆ〜…しょせん名前なんてそんなもんです。お互い頑張りましょう!
それで、知ってる商店街ですし…ぜひ…ぜひ…なんてなりまして…それからコンペなんかがありまして…モロモロあって遅れまして…遅れたことで年度が変わりまして…オレはディレクションと進行と頼まれたお店の写真撮影。HPデザインはSさん、コピーはTさん。スタッフと商店街の人達の頑張りがありまして…ましてまして…やっと出来上がりました。11月1日から変わります。

oyamadai2016.jpg

検索してみてください。
ふぉ〜ゆ〜
尾山台ホームページ
http://oyamadai.net/
posted by gutter at 17:55| Comment(0) | 日記

2016年10月25日

シマトラさんを知る

シマトラさん、島田虎之介という漫画家のことは全く知りませんでした。『ダニー・ボーイズ』という舞台のチラシをやることになり、その原作が島田虎之介さんの『ダニー・ボーイ』だったんです。

danny.jpg  dannyboy.jpg

漫画が原作か、と軽く思ってたんですが、読んでみると面白い面白い。漫画という範疇で到底くくれない文学性がありました。一度読んだだけでは全部理解できなくて、絵は違いますが高野文子さんを読んだ時に近い心地よいわかりにくさ。絵は杉浦茂やつげさんの感じもあるし、コマ割は凝っていて映画を観ている様…。それで、出されてる本を片っ端から読みました。どれも良かったんですが、中でも『東京命日』が好みでした。

toroi.jpg

DSCF2024.jpg

映像好きはぜひ!『トロイメライ』は手塚治虫賞受賞作。カバーデザインも素敵です。この二冊のデザインは南伸坊さん。おにぎりの絵を描いておにぎりみたいな顔のイメージしかなかったんですがただ者じゃないですね。
島田虎之介(シマトラ)さんとはパンフレットの打合せで会いました。その前に、まず島田虎之介って名前はなんなんだろう と思って彼のブログをのぞきにいったらトップ画面に猫二匹。おぉ〜シマ(縞)とトラ(虎)かぁと早合点。お会いした時に得意げにシマネコとトラネコだからだったんですねぇ〜と聞くと「違います」の一言。いや「猫は飼ってますけど違います」の二言。というかダメ押し。それでもしつこく聞いてみると、なんと大菩薩峠に登場する剣豪の名前からとったとのことでした。(実在した剣客だそうですが)仲代さん主演の岡本喜八版で言えば三船さんの役。漫画を何冊か読めばわかりますが映画の知識も半端ないです。
39歳でデビュー。そこから16年の間に5作。寡作です。ですが、それだけ映画、音楽、本、絵画、漫画…なんやかんや好きなものが詰まって詰まって詰まって、考えぬいて生み出した作品。面白いです。
posted by gutter at 16:22| Comment(0) | 日記

2016年10月10日

たまりやとホテル

事務所のある九品仏の文化といえば言わずとしれたD&DEPARTMENT。D&Dは事務所から歩いて7〜8分の所にありお洒落若者の巣になってます。日本の古き良きものをカッコ良く見せた草分けですね。カリモク家具もここから広がりました。カリモクって言うとカッコ良いですが、本来の社名は刈谷木材。愛知県刈谷市に昔からある家具屋さん。刈谷木材だとなんだかローカル色たっぷりで田舎っぽいのに、カリモクになるとミッドセンチュリー色豊なオシャレメーカーになってしまう…不思議ですね。岡崎木材とか蒲郡木材なんてのがあってオカモクやらガマモクってやってもあぁはならなかったでしょう。製品とリンクした戦略があたったんですね。さてさてD&D。
実は最近はあんまり興味がなくなってしまい、近くにあってもあんまり行かなかったんですが、先日ちょこっと寄ってd design travelの愛知版を買ってきました。d design travelというのは48都道府県の見所を各県1冊ずつ発行している本です。
aichi.jpg
その愛知版に、ブログやFBで偶々知り合った西尾のレストラン「たまりや料理店」が紹介されていると知り、手にいれてきました。「たまりや料理店」にはまだ伺ったことはないんですが、地産地消で地元の美味しいものが食べられる古民家レストラン。料理専門の小さな図書館もあるようです。気になった方はぜひ!
tamari.jpg
gama.jpg
本の中からのもう1枚は地元蒲郡のシンボル、蒲郡クラシックホテル。なんども登場させてますが、もともとは昭和4年創業の蒲郡ホテルです。廃業して蒲郡プリンスホテルになり、いまは蒲郡クラシックホテル。名前と経営者は変わりましたが昭和モダンのステキさはそのままに近代化産業遺産に認定されました。ひと安心です。実はうちの両親が結婚式第1号。昭和三十年代の田舎はホテルで式をあげるという習慣がなかったんでしょう。蒲郡を離れて30年以上経つというのに故郷というのは何かにつけて気になるもんです。
posted by gutter at 23:29| Comment(0) | 日記

2016年07月20日

花森だくさん

いよいよ朝ドラ「とと姉ちゃん」が「暮らしの手帖」へ向かいはじめました。はたして唐沢さんはスカートをはくのでしょうか?
今月の現在の「暮らしの手帖」にとと姉ちゃんが花森安治さんと作った創刊号(本物)の復刻本が付録でついてました。「暮らしの手帖」の前。まさにオンエア中の雑誌です。やはり終戦の翌年の1946年にファッションの本を出したってのがスゴイですね。
STYLE.jpg

自分が高校生や大学生の頃、もしかしたら花森さんが現役の頃とかも、本屋とか家で「暮らしの手帖」を見てはいたましたが、地味な主婦雑誌のひとつくらいの認識しかなく全く興味がなかったんです。ですが、グラフィックの仕事をするようになってから手書き文字がジワジワ来だし、あの古っぽい写真の印刷さえも魅力に思えてきて、今では仕事マイカップも花森イラストです。
DSCF1438.JPG
カレンダーなんかもここ10年くらいは花森さんになりました。今月はコレ。
DSCF1426.JPG
これまた偶然家に本誌がありました。1976年の 6、7月号。ちょうど40年前です。
DSCF1430.JPG
晩年の女性イラストシリーズです。値段は520円、今でいうと2000円くらいかな。けっこうします。でもしょうがないんです、広告がいっさいないんですから。
「暮らしの手帖」が一番素晴らしいのはこの広告がない、つまりどの商品も公平に扱えるということなんです。絶対真似のできない唯一の公平な目を持った雑誌です。広告がないからこそ出来る「暮らしの手帖」の企画に、商品テストがあります。各メーカーの商品をあらゆる角度から容赦なくテスト。これ以上の消費者目線はないですね。以前自分が広告をやっていたチャイルドシートがとりあげられていたことがありましたが、各メーカーのチャイルドシートを自動車につけて衝突テストをやってました。ハンパないです。
ついでにもうひとつ。毎年夏に神田である素人も参加できる古書入札会に、今年原画が出品されていました。
img_5_m.jpeg
34点で10万は安すぎると思い腰が浮きかけましたが…最終的にはかなりお高くなったようです。旬ですし、そりゃそうですね。これを見てて面白いのは文明というタイトルも毎号描いてるらしいこと。なんで毎号タイトルを書いたのか?解せん。…愛すべきこだわり変人です。
posted by gutter at 19:56| Comment(0) | 日記

2016年06月26日

大女優は撮らない、撮るかどうかはファッション次第だ

「私たちはいつもビルのために着るのよ」は
プラダを着た悪魔のモデル、ヴォーグの編集長アナ・ウィンターの言葉。

まっ青な作業服の上っ張り。二十何代目かの自転車。ニコンのアナログカメラ。カーネギーホールの上にあるスタジオが住処。50年以上ファッションをスナップでとらえてきた、写真家のビル・カニンガムさんが亡くなられました。
三年くらい前だったか、映画評論家でイラストレーターの石川三千花さんとお仕事の打合せした時の事。帰り際に図に乗って
「最近何かオススメ映画にありますか?」とお聞きしたら
「これが面白かったのよ〜」とチラシを渡されたのが
「ビル・カニンガム&ニューヨーク」
ビル・カニンガムさんのドキュメンタリー映画です。スゴク良かった。

E1368619627074_1.jpg

当時ワンディのコンタクトをしていたので、毎月のように駅前のメガネ屋さんに行っていました。そこにいつもちょっと攻撃的で面白いファッションの女の人がいたので
「今日も服が面白いね」と言うと
営業笑みで「ありがとうございます」と返してきました。それで
「ビル・カニンガム&ニューヨークっていう映画観た?面白いよ」ってつい喋っちゃったんですが、はじめて交わした私的な内容の会話がビル・カニンガム。あまりにも唐突だったのか引いていました。
彼女観たかなぁ。観ればいいのに…。今日の訃報のニュースを偶々彼女が目にし、奇跡的にオレの言葉を思い出さないかな。
ともかく観てない人はぜひ! マニアックでアーティスティックでスタイリッシュでファッションだけじゃなくデザインの本質がわかる映画。それとちょっとオシャレがしたくなるかも。
posted by gutter at 15:46| Comment(0) | 日記

2016年04月14日

マドレーヌの青春時代

ヴィンテージ家具のold maisonさんが、奈良にあるジェオグラフィーというカジュアルファッション店のリニューアルをやることになり、ちょっと面白いポスターの仕事をしました。リニューアルの内容が奇抜なんです。店内を映画「アメリ」をオマージュした架空の映画の撮影風景のようにしようというもの。そこでまず映画のタイトルとあらすじを考えてほしいと言われ考えました。映画のタイトルは「マドレーヌと366通の手紙」
POSTER
madeleine.jpg

マドレーヌとは、「アメリ」に登場するアパートの管理人。「マドレーヌと366通の手紙」は彼女の若い頃を描く作品です。つまりアメリと出会う前の映画。「アメリ」のエピソード0というかスピンオフ作品ですね。細かいストーリーはライターに考えてもらいました。
以下ちょっと長いけど
STORY
マドレーヌ・ウォラスは、夕焼けのような赤毛に、細い手足をした女の子。
生まれたのは下町のアパルトマン。航海士の父はいつも海の上にいたから、小さなマドレーヌは母親と二人きり。少女になり恋に憧れた時、自分が生涯を共にする人は、いつもそばにいてくれる人がいい、とマドレーヌは思った。波乱万丈も贅沢も要らない、ただ、一緒にいることが幸せで、その人も私と一緒にいると幸せなら、それが一番大事だと。
ところが、20歳のマドレーヌが恋をした相手は、蜜月のさなか遠い戦地へ兵役に取られてしまい、二人の愛はたくさんの手紙で育まれることになった。なかなか届かない彼の手紙、でもそれらは甘く優しい愛の言葉で埋められていた。マドレーヌは幸せだった。そう、戦地から彼が戻るまでは。戦地から帰って商売を始めた彼は、それが軌道に乗ると、将来を誓ったマドレーヌを捨てて、南米へ仕事の旅に出かけてしまったのだ(秘書と一緒に)。 
マドレーヌは、一度だけ彼を待つことにした。しばらくすれば目が覚めて、私こそがかけがえのない存在だと彼は気づくだろう。そして、私の元に帰ってくる。きっと。そうしたら、何も聞かずにただ「おかえりなさい」と迎えよう。それからは、子どもの頃から夢見ていた、いつも一緒の日々を過ごせるのだから、と。
マドレーヌは彼に手紙を書いた。毎日、毎日。いいお天気で朝ごはんのオムレツが上手にできた嬉しい日も、飼っていた猫が死んだ悲しい日も。小さな出来事も全部。彼から返事がなくても構わなかった。手紙は、遠く離れていても想いは一緒、という、マドレーヌの心の支えだったから。なのに――。
ある日、マドレーヌの元に届いた報せは、彼が交通事故に遭い命を落とした、というものだった。その日、彼の帰りを一緒に待っていた黒い犬も死んだ。彼からの手紙はとうとう一通も来なかった。彼が遺したのは、親から受け継いだ旧いアパートだけ。管理人に収まったマドレーヌは、それからの独りぼっちの日々を、ただ涙を流すためだけに暮らした。どうして彼は帰ってこなかったのか、本当は誰を愛していたのか…、想いを片付けられぬまま、何年もが過ぎた。やがて、このアパートに、彼女が恋に落ちた頃と同じ年頃の、ちょっと変わった女の子・アメリが引っ越してくるまで…。(以下略)

こういうお話を撮るという設定でアパートの部屋や八百屋などのセットがジェオグラフィーの店内に展開します。このストーリーは店舗や広告などには全くでてこない内容ですが、ストーリーがないと企画に芯がなくなってしまうので大切なんです。アメリが大好きな人ならちょこっとわかってくれるかな。

マドレーヌとアメリの世界に生まれ変わったお店
ジェオグラフィー イオンモール橿原店は4月22日OPEN。 お近くの人はぜひ!
posted by gutter at 20:16| Comment(0) | 日記

2016年03月06日

坊主丸もうけ

高校時代の同級生に武内という物書きがいて、その彼から久しぶりに本を書いたので興味があったらぜひ…というメールがきました。三陸の被災地を、八戸から仙台までの海岸線400kmを自転車でたどって取材した本だそうです。すぐにAmazonしましたよ。こういう連絡は嬉しいしとても励みになります。

51edL+lRCWL._SX341_BO1,204,203,200_.jpg

高校時代の高校とは愛知県の愛知高校。愛知高校という名前がさも県立のようですが曹洞宗系の私立。いまは共学ですが、当時はマンモス男子校。1学年50人みっちりいて19クラスもありました。当然、青いも春も薄い高校なんで大人になって同窓する機会も期待もあまりなく、同級生でいまだに付き合っているのは二人だけです。一人は前にも登場した加藤。彼は下等という名で放送作家を長くやっていて、20代の頃は一緒にどっぷりお笑い芝居なんかやっていた仲間。そしてもう一人が文筆業の武内。武内とはお互い生存確認くらいしかしない仲ですが、そこはデザイナーの自分とは同じ穴のムジナ。遠くから不幸せな匂いをかぎあっては安心しあってます。貧乏〜?オレもだよ〜?薄くなった〜?オレも〜みたいな感じですかね。

高校の三年の時、当時の校長がとてもワンマンで、教員組合などに全く知らせず、独断で受験料などを値上げしてしまうという暴挙があり、それに憤慨した教員組合がストをするという事態になったんです。授業以外の時間に正面入口で座り込むといったスタイル。こちとらストというものを見るのは初めてでした。その座っている先生達の姿に影響受けたのか、加藤と武内と三人である企みをしました。それは高校の中心にある、県内でも三本の指に入るであろうかという1500人も収容できる馬鹿でかい大講堂のてっぺんに、「坊主丸もうけ」と書いた横断幕を真夜中に忍び込んで張ろうというものでした。うちが繊維関係で布は山ほどあるので、三人で何メートルずつ生成りの生地を持ち帰り、それぞれが縫って合わせ5m×10mくらいの幕を作りました。その後、守衛の見回り時間などを調べたりしてたんですが…結局そこまで。実行する勇気も度胸もなかったんでしょう。もっともやっていれば退学になり、その後どうなっていたのかしれません。ただあの時のちっぽけな反骨の疼きみたいなものが、その後の三人を巻かれない自由業の道に進ませたのかもしれません。

posted by gutter at 01:46| Comment(0) | 日記

2015年12月28日

ふたたびは進化する

2015年の仕事を振り返るとお芝居では再演のものが多く、どれも進化してました。
無名塾「バリモア」は稽古場で。80歳を越えた後の1年後です。なんとか無事にくらいに思っていましたが、なんのなんの現状維持どころか、笑っちゃうぐらいスゴかったです。どうとでも観てくれという怖さがありました。
加藤健一事務所は「バカのカベ」も再演ですが、進化という点では「滝沢家の内乱」。嫁のお路の成長譚という色合いがハッキリとわかるようになってました。忍さんの演技も良かったのですが、瀬さんを引き継いだ加藤さんの演出力が光った秀作です。
子供のためのシェイクスピアは「ロミオとジュリエット」。第一回作品の再演ですが、第一回は加納さんが演出されたようなんで初演としてもいいかもしれません。パリスと最後の部分の演出が山崎流の表現で面白かったです。若松力さんは子供にはなくてはならない存在になりました。来年は「オセロー」、これも再演。とても楽しみです。
小宮孝泰さんのひとり芝居「線路は続くよどこまでも」は再々々々々演くらいらしいですが、今回新しいキャラクターがひとつ加わってたようです。さらなる進化を目ざす鄭さんも小宮さんもステキです。本当に素晴らしい作品、もっともっとたくさんの人に観ていただき、もっともっと認められてほしいです。
今年初めて関わらせていただいたF/Tの中の「ブルーシート」。これは再演といっても、震災当時福島の高校生だった出演者が演じた作品で、彼らの現在の姿も反映されている作品です。なので厳密に言うと同じものではありません。観客も同じ時間を歩んでいるので時とともに感じ方も違ってきています。観客ひとりひとりに大きな宿題を持ち帰らせた優れた作品でした。飴屋さんを知ることが出来たのもF/Tに関わった収穫でした。

それから、大きな演劇イベントに関わることはほとんどないんですが、20年以上前に規模は小さいんですが「TOKYO演劇フェア」というのをやってた事がありました。93年は三茶でお世話になっているシェリーさん。これが彼と最初の仕事です。その前の年、92年はラフで象を出して通ったもんだから長野まで行ってサーカスの象を撮影しました。「いま日本にいる象の中で一番大きいです」とか言われてる中、カメラマンのアシスタントがビクビクしながら象の目の下で露出計っていました。昔の自分の作品を見るとダメな部分ももちろん多いんですが、無謀な強さもあります。今、象を撮るために長野に行けるか。これが来年の自問自答。話はずれましたが、自分が進化するためには やや無謀 な事が必要だなと考えてます。

TOKYO93.jpg   TOKYO92.jpg
posted by gutter at 15:25| Comment(0) | 日記

2015年11月02日

陸から北陸

3時からの「おれたちは天使じゃない」のゲネプロを観るのに東京駅10時半の新幹線で間に合っちゃう。ほぼ4時間で能登中島まで着けるなんて!北陸新幹線が出来て便利になりました。ほんと能登空港(のと里山空港)が出来る前は陸の孤島でした。その時は空港できてすっごく早くなり喜んでましたが、やっぱり飛行機って面倒くさい。羽田の能登便なんか空港の中でも最果ての果ての果てってくらいの場所ですし…こりゃあ危うし空…
(って行きは思ってましたが、帰りも新幹線にしたらつなぎは悪いし鈍行の新幹線しかなかったりで疲れました。行きは早くいける新幹線で行って、帰りは空港まで送ってもらって飛行機がベストかな。)
さて、なぜゲネプロ観に能登まで行くかって言うと、無名塾のパンフレットは途中で舞台写真入りに替えるからです。長くやる公演でないとこんなことは出来ません。再演でもない限り今観た芝居の写真が載ってるなんてないですからね。で、写真をレイアウトするにあたって本番をちゃんと観とかないとってことなんです。そこでカメラマンにお願いもできますし。

東京から北陸新幹線で金沢まで。北陸新幹線は“かがやき号” なんと言っても、停まるのが大宮の次が長野というのにビックリ。副都心線で新宿三丁目の次が池袋になった時に近い驚きがあります。座席間は広いし居心地良いですね。
DSCF0738.JPG
周りにいるグループが気になりました。なんか芝居の匂いがする。旅公演の役者移動じゃないかと勝手に思う。女の子マスクしてるし…面識ないけど一番年長の人が鴨川てんしさんじゃないかしら。一行は長野で降りる。長野なのか松本か…頑張ってください。妙に親近感。

DSCF0741.JPG
金沢からサンダーバードで和倉温泉まで。13号です。これが2とか3だったらワクワクしますね。1は人気薄っ。1はただのロケットにしか見えん。しかしサンダーバードに乗るって書くだけで昭和の人間は得した気分です。
和倉温泉からは、のと鉄道で能登中島まで。そこから能登演劇堂までは歩きかタクシー。能登演劇堂は図書館と隣接してるのにバスもないんです。車社会なのと採算が合わないせいなのでしょうか。バンみたいなのでいいからバスほしいなぁ。
DSCF0746.JPG
それと、のと鉄道が痛電になっててビックリしました。外装だけなら驚かないけどアナウンスがアニメキャラの芝居入り。苦手なんでちょっと勘弁でしたわ。 け し き と あ わ ん 。土日はアニヲタが集結するそうです。

劇場行ったらわれらが3011番が勲章を、一番良い勲章をいただいていてビックリ。
「おれたちは夢じゃない」かと思いました。(おれたちのたちは誰?)いやいや、とっくにもらっててもいいでしょう。
おめでとうございます!
3011.jpg
肝心のお芝居もとってもあったかく良いお芝居になってます。ぜひ!
タグ:無名塾
posted by gutter at 12:57| Comment(0) | 日記

2015年06月30日

スクラップといえば植草甚一さん

DSCF0155.JPG
世田谷文学館で「植草甚一スクラップ・ブック」という展示を見てきました。
植草さんの活躍したのは1950年代から1970年代だと思うのですが、後にも先にも映画、ジャズ、アメリカの小説なんかの分野で植草さんを超える物知りオタクはいないんじゃないんでしょうか?その時代の色んなカルチャーが植草さんの頭の中でゴチャゴチャにコラージュされ、それをスクラップして排出しているイメージ。でもステキで計算されている。ものスゴい人です。時代が前なので本当のところよくは知らないんですけどね。

DSCF0161.JPG
植草さんをはじめて知ったのは中学生の頃。その後背伸びして、晶文社から発行された「植草甚一スクラップ・ブック」という月刊本を買っておりました。その本には毎号、手書きの日記が載っている小冊子がついていました。神田のどこそこで本を十冊買っただの、締め切り飛ばして散歩してまた本を十冊買って重かっただの、他愛もないことがなんとも味のある文字でダラダラ書かれてるだけなんですが、それがとにかく面白かった。
本の方はというと、なにしろ植草さんの知識が豊富すぎて1ページの中に知らない映画や俳優や本なんかの話がわんさか出てくる。ひとつふたつなら飛ばすんですが、知らないの多いんで気になっちゃってなかなか読み進められない。面白そうな方向を示してくれてるのにこちらが無知というかレベルが違いすぎて共感するとこまでいかなかったんです。ちょっと子どもすぎました。それでいつか再読したいと思ってました。登場する映画を観、引用された作家の本をかじって、準備して植草さんの住む丘に登りたいと…ですが、たいして観ず読まずで何十年。

植草さんの集めたスクラップ素材  スクラップしていた机のイメージ
DSCF0167.JPG       DSCF0152.JPG
今回わかりましたがそんなことは到底無理。自分には転がって落ちてきた石ころを眺めるだけで十分だったのです。まぁでも、全部は無理でも少しは登場する映画や本を触れてみよう、と思った次第。で、
展示の方はというと、世田谷文学館の人達の植草愛は伝わりました。ですが日記がほとんどなんで展示物のひとつひとつが小さいのが難点。どーしたらいいのかな?今ひとつ植草さんの世界が伝わりにくかったです。カオスの極致みたいな面白さが欲しかった。もっとゴチャゴチャで汚くてもいいかも。

四万冊といわれる蔵書の中で埋もれる植草さんと
お気に入りのTシャツ姿の植草さん
DSCF0165.JPG DSCF0164.JPG
タグ:植草甚一
posted by gutter at 20:39| Comment(0) | 日記

2015年06月22日

KODAKからFUJIFILMへ

今度は久しぶりにデジカメを買ったお話。前に持ってたデジカメがKODAKでこんどのはFUJIFILM。なんだかフィルムメーカーに縁があるようです。
FUJIFILMがカメラを出していたことさえ知らなかったんですが、デザイナーの友達の事務所で見た彼愛用のFUJIのカメラがステキだったのですっかり虜に。それから量販店に行く度にFUJIを意識するようになり、とうとうX30を買いました。気に入ったのは見た目と持った感じ、けっこうズッシリきます。このあたりのランクの機種ってどこもアナログ回帰のデザインばかり、その中で一番好みでした。上位機種の100Tも魅力的だったんですが、自分の力量と使いやすさで選びました。
IMG_8667.JPG IMG_8668.JPG
撮ってみると色々と気になる部分が出てきます。シャッター音はいただけないし、パキパキした色調は慣れるのに時間がかかりそう。F2.0(広角)~F2.8(望遠)は明るい、レンズが明るいってだけでモチベーション上がります。あとスーパーマクロの1cmは驚き。ほとんどくっついてる。お米に書いた文字とか撮ってみたいですわ。撮らないけど。それからそれから、へんてこなフィルターがいっぱいついてます。聞くと最近のデジカメはみんな付いてるそうです。みんな簡単に出来ちゃったら使えないですね。
パートカラー        トイカメラ
DSCF0080.JPG DSCF0079.JPG
ぼかしコントロール(右がそう)
DSCF0025.JPG DSCF0026.JPG
こんなのあると深度とか気にしなくなりますわ。まぁちゃんとレンズでぼかした方がキレイですけどね

とりあえず散歩のお供ができました。
posted by gutter at 20:19| Comment(0) | 日記

2015年02月01日

さよなら水晶よ

眼の中の濁った水晶。右眼は去年の春まではギリギリ見えていて、免許の更新もクリアしていたんだが急に悪くなったんです。ほとんど見えない。駅の柱の駅名も見えない。眼科の検査に行くと、冗談でしょって感じの、手で持つバカデカイCひと文字のパネルが置いてありますが、それが見えない。

5年くらい前になんとなく眼がかすむので恵比寿の眼科に行った時のこと…
「白内障ですね」
「白内障ですか?どうしてなったんでしょう?」
「肌をつまんでみてください、ピチピチですか?赤ちゃんみたいにピチピチですか?」
「(つまむ)…違います」
「そういうことです」
「…」
「老化です」

普通は20年後に心配することだろうから職業病なのかもしれない。
それから騙し騙しやっていて、医者も10年くらいしたら…まあ考えてもなんて言ってたんですが急にダメになった。そういう事もあるようです。
なにしろほとんどのお年寄りがやっているとはいえ、眼の手術。仕事の事もあるし眼は最重要箇所。聞き、勧められ、調べ、名医と言われるA先生が執刀する病院で両目同時日帰り手術をやることになりました。大丈夫そうに見える左の水晶体も曇っているらしく一緒にやるのをすすめられ両目同時。両目同時って?…ちょっと不安でした。東京ではほぼA先生だけのようです。

それが30日。よりによって、白内障の最後の抵抗のような雪。うっすら積もってきれいでした。が、滑ったら大変、すぐ脱げる靴をという指示でしたがガッチリスノーブーツにして向かいました。
その日は35人が手術。全てA先生の執刀です。
60〜65例(片目を一例と数える)の手術が行われました。神業というかすごい体力と集中力。診察や目薬さしながら3時間くらい待って、手術前控え室へ。そこで点滴して血圧と心電図測る器具をつけ、手術時間は両目で10分くらい、右がすんだらすぐ左にいきます 。手術中は進行を穏やかな声で教えていただきました。痛くはなかったんですが、白内障をとり終えてレンズを入れるまでの20秒くらいが真っ暗になり、0の闇という感じで怖かったです。
人が多く忙しいゆえの居心地の悪さはありますが、初診に予約がいらなかったり、紹介料をとらなかったり、料金も高くないし良心的。問題は混んでいる事、診察もかなり待ちます。手術も今からだと6月。えっていうくらい先ですが難しい眼の人も全国から来るようなのでしょうがないかも。

昨日は手術後の診察日
「なんだか見えすぎちゃって、家が汚くて汚くて、あちこち掃除してたら気持ち悪くなっちゃたわよ〜」
「だめよ〜まだ動いちゃあ」
なんていうおばあちゃん達の声もどこか明るくはずんでました。
タグ:白内障
posted by gutter at 14:00| Comment(0) | 日記

2014年11月22日

クリスマスと眼鏡

土曜日なのでゴミ袋を持って表に出たら、男の子が二人なにやら大きな声でしゃべりながらやってくる。小学四年生と見た。

「クリスマスかぁ、今年何もらえるかなぁ」
「本だよ」
「ホ…ン?」
「ホン!まいとし、ホン!」
「…」
「ママが勉強になるからって」
「…」

少年が放った「ホン!」は迷いのないハッキリした声。妖怪ウォッチどころかなんのゲームも入り込む余地のない潔さがあった。行き場を失ったクリスマスの話はそこで終わるしかなく、二人は黙って通り過ぎていった。彼はなにより「本」が欲しかったように思えた。

父方のいとこのD介のこと。彼は小学校に上がるくらいまで声も出さない臆病な子だった。親戚の集まりがあっても、ビクビクしていて一言も話さず奥に引きこもってジッとしているばかり。それがある年の正月の事だった。本家の居間で騒がしい子どもがいる、誰かと思ったらD介だった。そして、これぞ牛乳瓶の底という眼鏡をかけていた。
「いっつも困ったような顔しとるもんで、もしかしたら目が悪いんじゃないかと思ってねぇ、眼医者に連れてったじゃん」
「ほんで?」
「目が悪かっただよ、ほんで無口だったんだで」
「そりゃわからんかったねぇ、目だったかん」
「眼鏡作ったらしゃべるしゃべる、まぁ止まらん」
D介のお父さんも原因がわかってホッとしたようだった。
それからが凄かった。性格が明るくなっておしゃべりになっただけでなく、文字に目覚めたのだ。
「いままでみんなが本見とってもなんだかわからんかったけど、それが見えるようになったもんでスゴい興味もったんじゃないかん?」
「ほだら〜」「ほだら〜」
親戚中ではD介の話題で持ちきりだった。なにしろどこでも本という本を読みあさる、小学生なのに大人の本まで読む。読んでわからないことがあると大人に質問攻め。ノージャンル、辞書まで読む。うちに来た時も親父の書庫に閉じこもり、親父に質問攻めしたあげく何冊か持ち帰っていった。オレや兄貴が絶対手にしない5cm以上あるやつだ。本の虜になった彼にはもう何年も会ってないが、一族ではじめて東大に入り農業の研究をしている。
D介もクリスマスに「本」を貰っていたな と思いだした。 
posted by gutter at 18:31| Comment(0) | 日記

2014年10月31日

モウロウどころか目が冴えた菱田春草展

昨日の昼間、思いたって菱田春草展へ行ってきました。
黒猫がなにかと話題の展覧会ですが、落葉シリーズが素晴らしい。遠目から全体見回し鼻息荒くうなってたら、かぶりつきの御夫人集団がうるさいのなんのって…もう、何話してんのかと思ったら
「これ、椎の木じゃない?」
「ドングリが落ちてないから違うんじゃないの?」
「じゃあ、椎の木じゃないんだ」
そ こ で す か ?

36歳で亡くなった菱田春草、最後の2、3年のセンスがケタ外れですね。芸大(東京美術学校)の同期に横山大観や下村観山らがいますが、同時期の画家と比べてもオシャレでセンスが抜群。本当はここからだったんだなと感じます。背景を描かないで手前をちゃんと描くことで朦朧がより朦朧となり遠近感も感じられる。そして絶妙なバランス、見事でした。
shunso_left.jpgshunso_right2.jpg
下は落葉シリーズの部分アップ。病床でこんなに細かく描くのはどんなに大変だったか、未完の作品も含め全ての落葉シリーズを観ることができます。
ochibabubun.jpg

若いころの宗教っぽいものとか坊さんの絵とか、朦朧づくしなんてのはちょっと苦手なんですが20代の作品にも面白いものがありました。
hakuboyan.jpg
「白牡丹」これなにがスゴいって、右上にある黒い二つの点、はじめゴミかと思ったらコバエのような虫でした。この虫で空間のバランスがうまくいってるわけなんですが、普通描かないですよね。買う側から言ったらイヤですし…。
旧態依然とした日本画への挑戦というか反骨がブンブン飛んでいるような気がします。
猫シリーズで好きだったのはこれ
koroneko.jpg
ちょっと怒ってますね。今回の展示のメインの黒猫は何とも言えない魅力がありましたが、思ったより色のメリハリがなかったのと黒猫がそこにいるという感じがあまりしなかった。なぜだろう…照明の加減もあるのかもしれませんが…。
あとカタログのデザインがシャレてました。
春草さんもセンスのいいデザイナーにカタログを作ってもらって喜んでいることでしょう。
posted by gutter at 15:45| Comment(0) | 日記

2014年10月30日

芭蕉と小さいおうち─その2

しばらくして「小さいおうち」を観たんですが、小さくないじゃん が第一印象。あれが小さいなら大きいおうちは岩崎邸か!と思いましたね。それで問題の間取りですが「小さいおうち」の1階は
ouchi.jpg
こんな感じです。こういう家の特徴は和洋折衷。昭和20〜30年代に流行った文化住宅に近いです。関西では文化住宅というと集合住宅のことを指しますが、東京では日本家屋の中に洋風の応接間を取り入れた家を文化住宅と呼びます。玄関入ってすぐ左側の洋間が応接間。俊定先生の家もそう、お会いする時はいつも出窓の付いたこの応接間でした。比較すると、応接間は先生の家のほうが少し狭いんですが、それ以外は台所の位置も奥の続き部屋もほぼ同じ。叔父さんが本を読んでいて同じと思ったことも頷けます。文化住宅は平屋が一般的だったので、二階のついた「小さいおうち」や「中村俊定家」は少し上等なタイプかもしれません。トトロのサツキとメイの家もそうですね。洋間への憧れと日本家屋のすごしやすさが合体した理想的な昭和の住宅とも言えます。今ではめっきり少なくなりましたが、杉並や世田谷を歩いているとたま〜に見かけます。
j006.jpg  j005.jpg
j002.jpg  j004.jpg
横浜には小さいおうちサイズから中くらいのおうちのちょっと豪華なものも残っていて、これは洋館付き住宅と呼び、「よこはま洋館付き住宅を考える会」という市民団体が保存活動をしています。横浜なんで洋間がもう少しあるのかもしれません。
俊定先生の家は先生が亡くなり奥さんも亡くなられた後に、老朽化でやむを得ず建て替えられましたが、都内にあるものはなるべく残してほしいです。
「ものすっごい小さいおうち」でもいいので文化住宅のような家に住むのが夢なんですが…枯れ野をかけめぐるばかりかも。
posted by gutter at 18:35| Comment(0) | 日記

2014年10月28日

芭蕉と小さいおうち─その1

ファミリーヒストリーなんか観てると自分のルーツが気になったりします。小学生の頃ルーツ話で盛り上がると、みんななぜか自分の家だけは元は武士だと思ってる。ある時「お前は目と指がお百姓さん」と決めつけられ、頭にきて帰って親に聞くと「この辺はみんな百姓だよ」とそっけない返事。いまは農業に憧れがあり、尊敬しまくりですが、昔はテレビの影響なのか武士に人気があったようですね。
さて先祖ですが、変わったところでは父親のひいおばあさん(高祖母)の妹かお姉さんが形原の斧八という任侠の親分の姉さんになった人がいるそうです。外戚なんで全く関係ないんですが、吉良の仁吉と兄弟分だそうで次郎長三国志にちょこっと出てきます。で、うちのご先祖姉さんはと言うと、斧八親分が留守の間に家にやってきた渡世人を、「出かけてます!」ときつく追い返した。というたわいもない話だけが百何十年経った法事の暇な時間に出るくらい。「出かけてます!」だけではファミリーヒストリーにならないですね。
自分が知ってる一族の中のではなんといっても中村俊定先生です。岩波文庫を四冊も出されている芭蕉の研究家。おじいさんの弟で大叔父さんにあたります。中村姓のお寺に養子に入ったんですが、文学がやりたくて早稲田大学に進み、その後俳諧研究に打ち込みました。継ぐはずのお寺はどうなったんでしょうか?謎です。
こちとら芭蕉も俳句も全く興味は無かったんですが、本屋さんに入り岩波文庫の棚の前を通ると俊定先生の本を探し、あると誇らしい気持ちになってました。
俊定先生の家から5分くらいの雪が谷に父親の弟、つまり叔父さんが住んでいまして、叔父さんの家に遊びに行ったりした時に何度か俊定先生宅にもご挨拶に伺いました。いまだったら色んな事を多少は話せるのに当時はレベルが違いすぎて…もったいないことしました。先生はご高齢だったのでほどなく亡くなられましたが、自分の子どもも孫も甥っ子も親族みんな俳句に興味がなくって継ぐものがいないと嘆いてらしたのを覚えています。先生の集められた本は全て早稲田に寄贈され中村俊定文庫になりました。

IMG_6840.JPG
それからそれから15年くらい経って本屋でなにげなく「芭蕉俳句集」を買い、それからそれから5年くらい積ん読があって、なにげなく読んでみるとこれが実にわかりやすくまとまっている。これぞ食わず嫌いだったのかと思いました。芭蕉は天才ですね。スケールがスゴい、俊定先生がどこに惹かれどの句が好きだったのかなどお聞きしたかったです。
今年の5月ころの事です。雪が谷の叔父さんに会いに行った時に
「最近やっと俊定先生の 芭蕉俳句集 読んだんですが、面白いし、わかりやすいですね」と言うと
「年とるとああいうものが読みたくなるんだよ」とつれない返事。
そうなのかそうであってもいいやと思っていると

「小さいおうちって知ってる」と聞かれる
「映画ですか? 松たかこの?」
「いや映画はまだ観ていなくて本を読んだんだけど、出てくる家が俊定先生の家そっくりなんだよ」
「へぇ〜雰囲気がですか」
「いや赤い屋根とか雰囲気は全然違うんだけど、間取りがそっくりでね」
俊定先生の家の間取りを思い浮かべた。
(続く)
posted by gutter at 16:41| Comment(0) | 日記

2014年10月27日

冒険は永遠に

奇想の人でした。まさにアバンギャルドな人。
だげど内にこもらず外に向かって発信する。
その思いもつかない発想にいつも驚かされました。
赤瀬川原平さん。
トマソンなんてマイノリティの慰みものにすぎないような事を
いつのまにか誰もが気に留めるものにしてしまう。

先日も川越に行った時に古いビル壁にあるドアを見て
「あれっトマソンじゃない?」と思わず言ってしまった。
煙突写真もそうですが、誰もが気づかず捨ててしまうようなものに価値をみつけ、その視点の新しさについこちらも乗せられる。
楽しみながら逆流の川を登る人。ゴミの中から文化を再生させられる人でした。

IMG_8062.JPG
20年近く前になるけど、全てが観られる展覧会「赤瀬川原平の冒険」が名古屋であり、正確に言うと名古屋だけであり、こりゃあ行くしかないなと休みを取り。実家を通り越して展覧会を観に行きました。伝説の千円札裁判のものもあったんですが、伊藤博文の前の聖徳太子の千円札。全く知らないお札だったのでピンとこなかったけど、それだけ昔から反骨であったわけです。

小説を発表された時にはすぐ新刊を買いました。中身は良かったけど普通でした。普通な事にかえってビックリ。ピカソやゴッホがデッサンがうまいのと似てるのかもしれません。何をやってもセンスがよい人なんでしょう。その人が無用の廃物をトマソンと名付け面白がる、衰えを老人力と発想する、ここにスゴさがあります。
奇想もアバンギャルドもできなくても
流行やコンサバなものにとらわれない視点だけは持たねば…
posted by gutter at 14:34| Comment(0) | 日記

2014年09月07日

アサガオとポップコーン

八月の終わりのことだった。お昼を食べに行こうと事務所のドアを開けると、目の前にお隣の女の子が立っていた。
「こんにちは」「…コンニチハ…」いつものように挨拶をして、すりぬけようとしたんだけど、動かずモジモジしている。
「どうしたの?」と聞くと、うつむいてにじり寄って来て、なんだか言いにくそうに
「あのね…」
「…どうしたの?」
「あのね、…アサガオを預かってほしいの…」
…アサガオ?あぁ、わかった、通路に置いてあるアサガオのことか…
「いいよ、お水あげればいいの?」「ウン」
「旅行に行くの?」「ウン」
すごく嬉しそうな笑顔を見せた。

彼女の最大の心配事はなくなったが、こちらは責任重大だ。アサガオを見ると半分くらいの葉っぱが黄色い…もしや枯れかけているのか?夕方、事務所にあった観葉植物用の栄養剤をあげ、三日間は早く来た。そのおかげもあったのかなかったのかアサガオは枯れずにすみ、帰ってきた彼女からのお土産も気持ちよくもらうことができた。

先週の金曜日のこと、玄関でコンニチハ〜と元気のよい声がする。またお隣の子だなっと思ってドアを開けると、今度は彼女と同じ年頃の友達が一緒で紙の筒のようなものを差し出した。
「ポップコーン、作りたてだよ」「シオ、シオ」友達の合いの手が入る。
「ありがと〜、お友達?」
「ウン、同じクラス」「へえ〜、何年生?」
「1年生!小学1年生!」友達の方が答える。
「えぇッ、大学生かと思ったよ」
「なわけないじゃん、こんな大学生いないよ〜」反応がけっこう早い.
「学校始まっちゃって大変だね〜?」と同情すると
「楽しいよ〜!二学期だよ!でも今日は本の感想で大変だった〜」「ね〜」
二人はポップコーンを渡す任務を終えて楽しそうに笑いながらお隣に戻った。

お隣の子は1年生だったのか…学校は楽しいらしい…楽しいのか学校は?。
そんなこんなを考えながら、ポップコーンをつまみ、どうだったかな自分の小学1年生の時はと遠い記憶を辿っていてハッと思いだした。
1年生だからアサガオだったんだ。
宿題のお手伝いをほんの少ししたような気にもなり嬉しくなった。


posted by gutter at 21:02| Comment(0) | 日記

2014年02月05日

オレンジとグリーンの東海道線

最近人の事故が多い。アベノミクしてないのか、ずっと前からのシワヨセなのか、心配です。ホームの防御柵を作れば作るほど増えている気がしてなりません。
事故といえば思いだすことがあります。たしか高校1年の時でした。高校は実家のある東三河の蒲郡から名古屋まで通っていました。片道2時間かかるんで、朝はなんと6時22分発。始発から2本目です。次は30分後になっちゃうのでとにかくコレに乗るしかない。だから3年間遅刻なし。遠い子ほど遅刻ってしないもんです。で、ちょっと早く行こうと思ったら東京から来ている始発の5時9分大垣行きになっちゃう。この電車は貧乏旅行者がお世話になる有名な夜行でして、東京に出てきてから帰省でけっこう使いました。真夜中に着く静岡駅でワサビ漬けの付いたお弁当が楽しみだったなぁ。通学に戻ります。蒲郡に着く時は5時なのでまだ真っ暗。車内の明かりも落としてあります。その夜行臭むんわり漂う電車に、行李をかついだ行商のおばさんと一緒に乗り込みます。早起きで洗面所で顔を洗ってる人もいますが、たいがいグッスリなんで静かに腰をおろしこちらも仮眠。30分ほどたった刈谷あたりでアナウンスが入ります「ポンポンポンポ〜ン皆さま〜おはようございます〜」と同時に車内が明るくなり、あちこちから伸びした声なんかがきこえきます。早すぎる通学は、きれいな朝焼けとのんびりした旅気分が道連れでなんとも楽しいもんです。
かなり脱線しましたが、脱線ではなく衝突事故のお話。その通学の帰りのこと。土曜日の夕方だったと思いますが車内は通学帰りの東三河の学生でいっぱいでした。オレンジとグリーンの東海道線。
113_syuusei1.jpg
その日は二両目の四人掛けのボックス席に座っていました。幸田を出て左右とも田んぼの果てしない田園風景の真ん中を走っていて、あと10分もしたら蒲郡へ着く時、急に緊迫したアナウンスが入ったんです。「急停車します!急停車します!」
と、突然言われても人間思考が一瞬止まるだけで何をしたらいいのかわからない。もう一度さらに緊迫したアナウンスが入る「急停車します!」ただならぬ声に身構えた瞬間、ドーンと言う音とともに何かにぶつかった衝撃。後ろ向きに座っていたんで前につんのめる。何がおこったのかわからない中しばらくすると、運悪く1両目に乗ってた先輩が首の後ろを押さえてやってきた。「クビがイテェよ、トラックにぶつかった」こういう場合、ちょっと野次馬で見たくなる。一両目を見ると車両が登り坂になっています。「見てたよ、運転手は逃げたから無事だよ。あ〜クビがイテェよ」
電車が踏切で立ち往生したトラックに乗り上げたんです。ギリギリ間に合わなかったんでキレイに乗っかったのかも。大事故にならなくて良かったです。しばらくすると、なんとなく乗客の物知りによってドアが開けられ、なんとなくみんなゾロゾロ外に出ました。そこから田んぼのあぜ道をひたすら、一列になってひたすら幹線道路まで歩きました。振り返るとトラックに見事に乗り上げた列車が逆光の夕陽に映えてオブジェのよう。今だったら一斉にスマホや携帯で写メしたりしたんでしょうけどね。昭和の乗客はただ記憶の奥底にとどめるだけ。それでアリンコの行列のように果てしないあぜ道を黙々と歩いて、バスを適当に見つけて、適当に家に帰ると、晩ご飯を待ちながら家族が食卓を囲んでテレビのニュースに集中してました。
バラバラバラバラとヘリコプターの音と画像とアナウンサーがなんかしゃべってる。そこから引いた画像になると、オオッ、見覚えのある…ハァ〜ン、ヘリコプター画像だとこんな感じか。
トラックに1両目が垂直にキレイに乗っかった車両です。なんか実体験と別物。それとやはりテレビになるには時間がかかる。あれからどのくらい後の画像だろう?各々が勝手に帰ってしまっていては乗客のケガ人がいたのかどうかも、もはや知るよしもない。先輩のクビは大丈夫なのか…
「オレ、これ乗ってたよ」
「エッ〜!」家族全員が一緒に振り返りました。
posted by gutter at 23:20| Comment(0) | 日記

2014年01月19日

川上澄夫に辿り着く

「暮しの手帖」という雑誌があります。最近は昭和レトロの代表みたいな扱いですが、本来の魅力は、広告が全く入らないからこそできる、正当評価の商品テストにあります。この生活者本位の内容と、なんといっても花森安治さんのデザインや絵にあります。花森さんはあちらへ行かれてしまったのですが、その姿勢は変わっていません。
花森さんの絵が好きなので、カレンダーをネットで毎年買っていたんですが、3年前からやおらおこったレトロ人気のあおりを受け売り切れに…それでどこかで街の本屋で売っているところはないかと探したら西荻窪の信愛書房にたどり着きました。行ってみると、一見普通の地味な本屋さんに見えましたが、扱っている本にこだわりがヒシヒシと感じられ、独特の文化の香りが漂っています。これが古本屋ならわかりますが、新刊を扱う本屋さんだったのが新鮮でした。売れている本を揃えるだけではなく、読んでほしい本を置く。そこには確かな読書眼が裏打ちされています。そして信愛書房が古本を扱う高円寺書林というカフェをやっていることを知りました。

今年のカレンダー
hana.jpg

その高円寺書林が2月で閉店すると聞き、先日行ってきました。
とてもステキな空間でした。
100_6045.JPG
扱っている本が面白く、共有する文化の匂いが自分と似通っていました。ささめやゆきさんの原画がかかっていて、川上澄夫の版画集などが並んでいます。ささめやゆきさんは今やっている加藤健一事務所の絵を書いているイラストレーターさんです。飾ってあるのはささめやさんにお願いするきっかけになった「猫のチャッピー」の原画。川上澄夫の方は世田谷美術館で個展を観て知り、面白いと思った作家です。う〜ん、これは縁だなっと懐を納得させ川上澄夫は連れて帰ることにしました。

「えげれすいろは」の1974年復刻版(限定500の内67番)
kawakami2.JPG
好きな文化の流れってあるなっと感じます。
暮しの手帖→花森安治→信愛書房→高円寺書林→川上澄夫
もっともっと辿り、引き返し、また別の道を辿る この繰り返しで好みの文化を探りだし掴むのでしょうか。音楽や飲み屋も同じですね。辿らねば…もっと徘徊して辿らねば。
posted by gutter at 22:17| Comment(0) | 日記